ブラケットクリープとは——所得税の税率ラインが1999年から動かないことで起きる静かな増税

**結論。所得税の税率が切り替わる金額のラインは、1999年から27年間、ほぼ動いていません。330万円・900万円・1,800万円という区切りは当時のまま。その間に消費者物価は約14%、首都圏の新築マンションは2.2倍になりました。物価が動く中で税率の区切りを名目額のまま放置すると、国会の議決を経ない実質増税が毎年静かに進行します。これを「ブラケットクリープ」**と呼びます。

1999年から2026年にかけて、首都圏新築マンション平均価格は4,138万円から9,182万円へ2.2倍、消費者物価指数は98.0から111.9へ14%上昇したが、所得税の税率区分である課税所得330万円・900万円・1,800万円のラインはいずれも同じ金額のまま据え置かれていることを示す比較図 1999年 2026年 マンション 4,138万円 9,182万円(×2.2) 首都圏新築・平均 消費者物価 98.0 111.9(+14%) 総合指数・2020年=100 税率の区切り 同じ金額(据え置き) 330万・900万・1,800万円とも27年間同じ 出典:不動産経済研究所「全国マンション市場50年史」ほか、総務省「消費者物価指数」、 国税庁タックスアンサーNo.2260、平成11年法律第8号

ブラケットクリープとは——名前のついた「議決なき増税」

ブラケット(bracket)は税率の区分、クリープ(creep)は「じわじわ這い上がる」という意味です。所得税は超過累進課税なので、課税所得が一定の区切りを超えるたびに、超えた部分へより高い税率がかかります。この区切りが名目額で固定されたまま物価が上がると、購買力を保つだけの名目賃上げでも課税所得は膨らみ、より高い税率帯へじわじわ押し上げられていきます。

実質的な豊かさは1円も増えていないのに、税負担率だけが上がる。税率表には一切手を触れないまま進むため、「議決を経ない増税」とも呼ばれる現象です。物価が動かなかった時代の日本ではほぼ意識されずに済みましたが、インフレが常態化した今、この仕組みが静かに効き始めています。

税率表の変遷——27年間で動いたのは「これだけ」

まず、1999年以降の所得税の税率表をすべて並べます。切り取りではなく全段階です。

課税所得平成11年分〜18年分(1999年〜)平成19年分〜26年分(2007年〜)平成27年分〜現在(2015年〜)
〜195万円10%5%5%
195万円〜330万円10%10%10%
330万円〜695万円20%20%20%
695万円〜900万円20%23%23%
900万円〜1,800万円30%33%33%
1,800万円〜4,000万円37%40%40%
4,000万円超37%40%45%

出典:総務省「税源移譲後の所得税・個人住民税の税率」、国税庁タックスアンサーNo.2260(令和7年4月1日現在法令等)、平成11年法律第8号。平成25年から令和19年までは復興特別所得税(基準所得税額の2.1%)が別途課されます。

見ての通り、**330万円・900万円・1,800万円という金額のラインは、27年間一度も動いていません。**平成19年の改正は195万円と695万円のラインを追加して税率を微調整したものですが、これは住民税を一律10%にする税源移譲とセットで、所得税と住民税を合わせた負担は基本的に変わらない設計とされています(総務省)。平成27年は4,000万円超に45%を追加しただけです。つまり27年間の改正は「ラインの追加」と「率の微調整」であって、既存のラインの金額を物価に合わせて動かしたことは一度もありません。

これは高所得者に限った話ではありません。たとえば税率が10%から20%へ倍増する330万円のライン。物価が14%上がった今、1999年の330万円と同じ購買力を持つのは約377万円です。裏を返せば、今の330万円のラインは、当時の感覚では約289万円のラインまで下がってきているのと同じです。900万円のライン(23%から33%へ上がる地点)も同様で、ラインが動かないまま物価が上がるほど、より「普通の稼ぎ」の人が高い税率帯に捕捉されていきます。

その間に、生活水準はこう変わった

では、動かなかったラインの下で暮らしはどう変わったか。同じ「年収1,000万円」のままで比べます。

暮らしの要素1999年・年収1,000万円2026年・年収1,000万円のまま
家(都市部)首都圏の新築マンション平均4,138万円=年収の約4倍。都心の新築ファミリータイプが射程内平均9,182万円・東京23区平均1億3,613万円。新築は射程外。中古・郊外・賃貸の三択に
家(地方圏・山形市の例)土地70坪に大手メーカーで40坪の家=5,000万円前後※地価は下がったが建築費が2倍超。同じ家が7,000万円前後に
ミニバンの定番が249.8万円(エスティマ・1999年発売グレード)。家計で無理なく持てた同クラスの定番は500万円前後からが中心に※。買い替えが家計の重荷に
海外旅行円高基調・燃油サーチャージ制度なし。家族でハワイが「少し贅沢な夏休み」円安と燃料費高で費用は大幅増。「家族で気軽に」は難しい水準に
生活費消費者物価指数 98.0111.9。同じ生活カゴが14%高い

※印は当時の地価・建築費・現行車両価格に概数・仮定を含む項目です。

そして、この失われた暮らしを取り戻すために必要な年収が次の数字です。

1999年の「年収1,000万円の暮らし」を2026年にするなら
都市部(東京)年収 約3,000万円(当事務所試算)
地方圏(山形市の例)年収 約1,600万〜1,800万円(当事務所試算)

※家族構成・給与と賞与の比率・社会保険料率等に一定の前提を置いた概算であり、前提により大きく変動します。

裏付けとなる確定データは次の通りです。

項目1999年現在変化
消費者物価指数(総合・2020年=100)98.0111.9(2025年)+14%
首都圏新築マンション平均価格4,138万円9,182万円(2025年)×2.2
民間平均給与※従来の最高は1997年の467万円478万円(2024年・過去最高)+2%あまり
厚生年金保険料月給×17.35%・賞与はほぼ対象外賞与含む報酬全体×18.3%(労使折半)とされています負担増

出典:総務省統計局・内閣府長期経済統計、不動産経済研究所、国税庁「民間給与実態統計調査」、トヨタ自動車カタログ情報、年金制度解説資料。

給与の名目の伸びが四半世紀で2%あまりにとどまる間に、同じ暮らしの値段は都市部で3倍、地方圏でも1.6〜1.8倍になりました。そして重要なのはここです。**同じ実質の暮らしをする人が、1999年には20%の税率帯にいたのに、いま同水準の生活を維持できる年収を稼ぐと33%や40%の帯——「ここから上は最高税率」として1999年に設計されたラインの上——に立たされます。**豊かになったから多く払うのではありません。同じ豊かさを維持するだけで、階段の上へ押し上げられるのです。

政府の対応——「入口」は連動、「階段」は放置

手当てが始まったのは事実ですが、対象には明確な偏りがあります。

対象措置物価連動
基礎控除48万円→58万円(時限特例で最大95万円)に引上げ(令和7年度改正)令和8年度大綱で連動の仕組み創設を明記
給与所得控除(最低保障)55万円→65万円に引上げ(令和7年度改正)同上(基礎控除等として)
税率の区切り(195万〜4,000万円)改正なし対象外

令和8年度税制改正の大綱(令和7年12月26日閣議決定)は「物価上昇に連動して基礎控除等を引き上げる仕組みを創設する」と明記しました(財務省)。日本の税制に物価連動という考え方が初めて持ち込まれる画期ですが、連動するのは課税の「入口」だけで、税率の「階段」は対象外です。米国では税率表を含む60超の項目が毎年インフレ調整されています(IRS・2026課税年度分はRevenue Procedure 2025-32)。

注意点——すべてが税率表のせいではない

公平のために、要因は分けて整理します。社会保険料の増加は税制とは別の制度変更です。住宅価格の上昇は金融緩和や建築費高騰によるもので、税率表が原因ではありません。また平成19年の税率変更は前述の通り税源移譲であり、単体で増税と評価すべきものではありません。

本記事の論点は一点だけです。**物価と生活コストが動いたのに、税率の区切りだけが1999年の名目額のまま据え置かれている。**この一点が、名目賃上げの時代に実質増税として機能します。

実務ではこう見ています

税率の区切りとは、立法時点の「担税力」の判断を金額に写し取ったものだと考えられます。「この水準以上なら十分な生活ができる。それ以上の部分の負担率を高めても、課税の公平の観点から問題はない」——1,800万円というラインには、1999年時点のそうした実質判断が埋め込まれています。同じことは330万円にも900万円にも言えます。どのラインも「この金額の人はこれくらい負担できるはずだ」という、マンションが4,138万円で買えた時代の判断のまま止まっているのです。

しかし物価が動けば、名目のラインが捕捉する「実質」は変わります。上の表の通り、同じ金額はもはや立法者が想定した生活水準を意味しません。つまり、税率表を改正しないという不作為によって、国会が一度も議決していない負担増が物価を経由して毎年執行されている、と見ることができます。ドイツではこの現象を「冷たい累進」と呼び、定期的な是正が図られているとされています。

私は、令和8年度大綱の基礎控除連動は大きな一歩と評価しつつ、税率の区切りを対象から外したままでは、担税力の前提が崩れた状態を追認し続けることになると見ています。給与や役員報酬の名目額が上がる局面だからこそ、「額面の増加と手取り・購買力の増加は別物」という視点を、報酬設計や資金計画に織り込むことが重要だと考えています。

まとめ

ブラケットクリープとは、税率区分の名目額据え置きと物価上昇の組み合わせで生じる実質増税です。所得税の税率の区切り(330万円・900万円・1,800万円等)は1999年から同じ名目額のまま維持されており、インフレが常態化した現在、この仕組みが現実に機能し始めています。令和8年度大綱で基礎控除等の物価連動が打ち出された一方、税率区分そのものは対象外であり、今後の税制論議の重要な論点になると考えられます。

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